やきもの研究室

中国河南・河北省の仏教遺跡と陶磁古窯址研究の旅 PARTI

要旨

中国の仏教遺跡である河北省邯鄲の北響堂山、南響堂山石窟と河南省洛陽の龍門石窟を見学し、古陶磁の窯址は河南省の磁州窯・鈞窯・汝窯を博物館は河南省博物院、上海博物館を見学する行程の旅であった。特に汝窯の宝豊県清涼寺村官窯遺址の見学が出来たことは今回の旅の収穫であった。

1.はじめに

東京芸術大学の緒方啓介先生と先生の友人である孫文選氏のお世話で、中国の河北・河南省の仏教遺跡と陶磁古窯遺址の旅を8月 22 日から4泊5日で行うことができた。
 1日目は、福岡空港から上海浦東空港へ行き、関西空港から来られた緒方先生一行と合流し、その後バスにて国内線乗り換えのため上海虹橋空港へ、夕方鄭州空港到着後、専用バスにて安陽市内のホテルへ、2日目は、専用バスにて、仏教遺跡である、北響堂山(図1a~h)と南響堂山石窟(図2a~b)を見学し、その後、古陶磁の窯址である、磁州窯窯址(図4a~ h)へ、3日目は、鄭州ホテルを出発し、古陶磁の窯址である鈞窯(禹州鈞官窯遺址博物館)(図5a~c)と汝窯(宝豊県清涼寺村官窯遺址)(図6a~d)を見学後、河南省博物院(図7a~g)へ、4日目は洛陽のホテルを出発し、仏教遺跡である、龍門石窟(賓陽洞・古陽洞)(図3a~c)を見学し、その後、航空機にて上海のホテルへ、5日目は、上海のホテルを出発し、上海博物館(図8a~g)を見学後、帰福する行程であった。上海博物館は、河南省の博物院に比べて整理がされ観覧し易い工夫がなされていた。特に青銅器のコーナーは、迫力があり圧巻であった。また、鋳造の制作工程等、わかり易く説明されていた。

 仏教遺跡である、北響堂山は、山の中腹にあり、かなりハードな道のりであった。その後、南響堂山を見学した。特に汝窯の清涼寺村官窯址では、河南省の入場許可証が必要で、撮影禁止の中での見学であった。窯址の外で、近所の住民の所有する陶片に、天青色の美しい釉が掛かった発掘品?を見たが、それが欲しくて後ろ髪が引かれる思いで、村を後にした。

2.北響堂山石窟・南響堂山石窟・竜門石窟について

 北響堂山石窟は邯鄲市から西北に約 40 キロにある峰峰鉱区鼓山西側の中腹に開かれた石窟寺院。唐・宋・明代の小窟を入れると 12 窟からなるが、中でも北洞・中洞・南洞が北斉窟で、まず北洞が初帝文宣帝(在位 550~558)により開窟され以後中洞・南洞の順に造営されたと考えられる。

北洞
前壁上方三ヶ所に明かり取りの窓を開く。
洞内の中央に方柱を刳り残す方柱窟だが、方柱背面後壁と連結して下部のみトンネル状に掘りぬかれ、方柱は三面三龕とする。
方柱正面(西)に如来坐像及び脇侍菩薩立像、北面と南面は如来半跏像及び脇侍菩薩立像を刻んでいる。
いずれも中尊頭部に大幅な修復が加えられ、両脇侍像も上半身を失っている。しかし、足を曲げて腰を捻ったしなやかなポーズは北魏時代には全く見られなかった姿である。
方柱四隅には柱を支える怪獣が表され、方柱壇座の小龕には人身獣頭の異獣・着甲の神王・香炉などが刻まれる。
周囲の壁面には計 14 の仏龕に一尊ずつ如来像が刻まれるが、その龕は上部を火焔で包まれた宝珠で飾っ
た響堂山独特の装飾的な仏舎利塔の形を表している。

中洞
後世築造の木造楼閣が窟前を覆う。
窟門左右には、全身の破損が著しいものの頭上に冠帯を翻す二天王像を刻みだす。また窟門内側に向かい合う菩薩立像は、頭部を失っているが右足を軽く浮かせたしなやかな体躯に、薄く流麗な衣文が美しい。
窟内は大きな方柱を後壁から刳り出し、正面からのみ龕を穿ち、中に仏五尊像を刻みだす。中尊は後世
の補修と彩色が著しく、脇侍菩薩像の頭部も補修が加えられる。
窟内左右の壁や方柱左右面には、明代の仏龕が多数造られて北斉造営当初の姿は不明である。

南洞
前面を煉瓦積みで覆われ、窟門左右には仁王像(頭部破損)が刻まれる。窟内天井には大蓮華が刻まれる。南洞は三壁三龕窟で、後壁と左右の壁に大きく仏龕を穿って各龕に仏七尊像を彫り出す。各像は破損と補修が著しく、菩薩像の頭部はほとんど失われる。
各龕は前面上部に帳を懸け、その上層に一段、龕内にも二段の小仏坐像を表している。
前壁の左右には「無量義経」、前廊壁面に「維摩詰所説教」が刻まれる。
南響堂山石窟は邯鄲市峰峰鉱区の鼓山南麓にある。石質は石灰岩。下段2窟・上段5窟の計7窟からなる。第2窟入口に刻まれる隋代の「滏山石窟之碑」により、この地で北斉・天統元年(565)に霊元寺の僧
慧儀が開窟したことが判明する。

龍門石窟
敦煌莫高窟、大同雲岡石窟と共に中国の三大仏教石窟芸術の宝庫と併称されている。2000 年 11 月世
界遺産登録。
龍門石窟の主要石窟

<西山>
①賓陽北洞 北魏・宣武帝の 508~523 年に開鑿。
②賓陽中洞 北魏・宣武帝の 505~523 年に開鑿。
③賓陽南洞 北魏・宣武帝の 508~523 年に開鑿されたが、未完成に終わる。
④敬善寺洞 唐代 661~663 年の開鑿。
⑤万仏洞 唐代・永隆元年(680)の開鑿。
⑥恵簡洞 唐代・咸亨4年(673)の開鑿。
⑦慈香洞 北魏・神亀3年(520)の開鑿。
⑧蓮華洞 北魏・正光2年(521)以前の開鑿。
⑨魏字洞 北魏・正光4年(523)以前の開鑿。
⑩弥勒龕 北魏・孝文帝期の 493~499 年頃の開鑿。
⑪奉先寺洞 唐代・上元2年(675)に造営。竜門石窟のシンボル的存在。
⑫薬方洞 北魏・永安3年(530)以前の開鑿。
⑬古陽洞 北魏・孝明帝期の開鑿。
<南壁の代表的仏龕>
斉郡王元祐造像龕、比丘恵珍造像龕、比丘法生造像
龕、入母屋造屋形龕、趙阿歓弥勒造像龕。
< 北壁の代表的仏龕>
趙楽王夫人尉遅氏造像弥勒龕、慧成造像、王史平呉
等造像弥勒龕。
⑭皇甫公龕(石窟寺)北魏・孝昌3年(527)の開鑿。
< 東山>
⑮看経寺洞 唐代・武周期の 690~704 年頃の開鑿。
⑯千手観音龕 8世紀後期頃の造営。
⑰西方浄土変龕 唐代・玄宗期の 684~756 年の開鑿。

3.磁州窯・鈞窯・汝窯

 磁州窯は、河北省邯鄲市磁県の西約 25 キロの観台鎮や彭城鎮にある華北最大の製陶地である。五代末以来千年以上にわたって営まれてきた有力な窯の一つで南の景徳鎮と対峙する河北で最も大きい窯場である。有名なのは生地の全面に白化粧した上に黒顔料を塗り文様を箆彫りした後に周囲を掻き落とす白地黒掻き落とし技法である。

鈞窯(禹州鈞官窯遺址博物館)
河南省禹州市八卦洞や鈞台鎮に設けられた北宋第八代徽宗皇帝(在位 1100~1125)の趣味であった鉢植えのための専用窯で、年間 36 セットの植木鉢と水盤などの花卉類を焼いていた。釉薬の中に銅・鉄などの不純物が混入していたために、焼成の段階で予想しなかった色が発色する窯変に特徴がある。
鈞窯の特徴である澱青釉、紫紅釉の発色は青磁釉に比べて珪酸の含有量が多く、それに銅・鉄・コバルト呈色による融合が炎の芸術として鈞窯独特の変化の激しい釉調を醸し出している。最初酸化炎で十分に酸素を入れて 800 度位まで焼き、その後酸素を絶って還元炎で 1250 度位まで焼くことによって、銅や鉄が発色し、釉薬の珪酸が沸騰して霧のような模様が生まれる。

汝窯(宝豊県清涼寺村官窯遺址)
古い記録に北宋官窯として記される汝窯の存在は永く不詳だったが、1950 年に初めて宝豊県清涼寺窯址が発見され、2000 年には河南省文物考古研究所により汝窯焼造区が確認された。汝窯瓷器の胎土は薄く、色は灰色や灰白色(香灰色)を呈している。釉は比較的薄く、釉色は光沢があり潤い感もあり、半透明のもあれば乳濁状を呈しているものもある。天青、粉青、月白、卵青等各種の釉色がみられる。宋時の随筆に「内に瑪瑙の粉末を釉としている」という記述がある。

4.河南省博物院・上海博物館

河南省博物院
1927 年設立。青銅器、陶磁器、玉器、象牙、漆、家具、
甲骨等 14 万点収蔵。

上海博物館
世界に誇る膨大かつ質の高い中国古美術のコレクションを主とする。1952 年に設立され、上海の中心地である人民広場に新館が建てられる。新館は中国古代の宇宙観に従い方形を土台にした円柱形の建物である。所蔵品は百万点余りで、青銅器、陶磁器、書画が最も優れ、他に玉器、象牙、漆、家具、甲骨、印章、貨幣及び中国各民族の伝統工芸品などを展示してある。

5.まとめ

筆者の 30 年来の研究テーマは「中国の北宋・南宋代の青磁の再現研究」である。北宋の名窯である磁州窯、鈞窯、汝窯の窯址をつぶさに探訪出来た事には、感慨無量であった。念願である初めての中国の風景は、幼い頃の記憶が蘇るような、なぜか懐かしさと親しみがあった。訪れた上海、安陽、鄭州、洛陽は大都市であり、まだまだ発展の可能性を秘めた中国の懐の深さが実感できた。また、筆者の新しい知見としては、i、北響堂山の石窟の側壁に彫刻された、忍冬唐草模様が、磁州窯の掻き落としの模様に影響をおよぼしていた(図1f)。ii、窯の構造が、登り窯ではなく殆どの窯が単窯であった。iii、燃料は磁州窯では、石炭で、鉄のロストルがあった(図4c)。iv、鈞窯では、木材を燃料として使用し、窯は焚き口2連の兜型(図5c)であった。v、清涼寺の汝窯の窯は、意外と小さく平面が、馬蹄型や楕円型の万頭窯で、燃料は、木材を使用していた。以上、現地でないと知りえない発見があり大変有意義で、かつ、収穫のある旅であった。

質問する

記事に関する質問・ご感想のコメント
をお待ちしております。

    最新の質問と回答
    2022.08.16 質 問
    T.H  さん
    現在磁器の主流となっている天草陶石ではなく泉山陶石によるテストとのことですが、天草陶石との違いを簡単にご教授願えませんでしょうか? よろしくお願いいたします。
    2022.08.18 回 答

    簡単には難しいですが、天草陶石は磁器の特徴を全て兼ね備えた最高の陶石です。しかも単味で磁器土になりかつ成形しやすいです。それに比べて、泉山陶石は可塑性が格段に劣ります。その上硫黄など硫化物が多く白さに支障をきたします。一番の問題は、作品、製品の歩留まりが悪いです。1616年に発見された日本最初の磁器とされています。でも近年の発掘調査等から、それ以前に有田の西の方の窯場から初期の磁器が発掘され驚くことに泉山の陶石ではなさそうだと、分析結果が最近佐賀大学の方で発表されました。有田出身としては泉山陶石に関心を持ち如何にかして復活したい想いから研究しています。また通説では有田で天草陶石の導入は明治以降とされていたのですが、有田でも明治以前幕末頃密かに使用されていた形跡があるそうです。このように、我々陶芸に携わる者にとって有田は原料の宝庫で、研究を続ける楽しみがあります。是非機会があれば直に訪問してみて下さい。また有田と天草は関係があり井伊直弼が暗殺されなかったら佐賀藩が管轄してたかもとの噂があります。当時天草は天領で幕府の下にあり、井伊直弼とは縁戚関係にあった佐賀藩の天草の天領預かりが泡と消えたらしい。